今まで海外をあちこち回りましたが、どこの国へ行っても人は、みんな幸せになりたいと願っている。この願いは万国共通です。ところが、その幸せを獲得する仏法のことになると、言葉がわからないとか、難しいとか、教学の本がないからと言う人も多い。
その人にはこういうのです。私は日本語しかわかりません。砂糖の事をドイツ語や、フランス語で、何と言うのかわからない。知らないけれども、どこの国の砂糖も甘いという事はわかった(笑)
名前(言葉)が分かったから甘かったというのではない。名前(言葉)が分かろうが分かるまいが、どこの国の砂糖も甘いのです。それと同じように、言葉はわからなくても、御本尊に功徳があると言う事は、万国共通なのです。
ある国へ指導で行った時のことです。ヘソクリを夫に見つけられたことから、大喧嘩をしている夫婦に会いました。これまであまり信心していなかった非常に気の強い婦人で、そのために1年間も夫と口をきかない。洗濯もしない、食事も作らないと徹底している(笑)
そして、その婦人が〝何とか夫と別れたい〟の一念で百万遍のお題目をあげて願いをかけたと言うのです(笑)
その百万遍のお題目を唱えきった翌日、私と会ったわけですが「願いとして叶わざるは無し、と聞いていましたがサッパリ叶わないのはどういうわけですか?」と質問してきたわけです(笑)
その時、私は人が幸せになる願いは叶うが、不幸になる願いは叶わない。なんでもかんでも願いが叶ったら大変なことになる。
逆に私は聞きました。
「主人と別れるように百万遍あげたと言いますが、主人が信心できるようにと、何遍題目をあげたんですか?」と。
ところが、別れるように百万遍あげても主人が信心するようには一遍もあげていなかったというのです。
主人が悪いから苦労するのか?そうではない。主人で苦労する宿業があるから苦しむのです。主人が悪い事は分かっていても、自分が良い妻ではなかったことにはなかなか気付かない。
日蓮大聖人御在世当時の池上兄弟も同じです。信心に反対する父は確かに悪い父かもしれない。だが、なぜ反対されなければならないかと言えば、実は善知識なのです。主人が悪い、親が悪いということがわかっても、自分の過去世の謗法の罪が、まだまだ大きいという事は分からないから、自分の懺悔もしないで相手ばかり恨んでいるのです。こういうことをコンコンと話して『今までのことをすっかりお詫びして、御本尊様にご主人がしっかり信心できるように祈念しなさい』と指導しました。
あくる日、私が飛行場へ行きましたら、その婦人が車で駆けつけてきた。
『昨夜は大変にありがとうございました。家に帰って御本尊様の前に座って唱題したところ涙がとめどなく出てきました』と言うのです。そこで私は『今まであなたは主人から見れば悪い妻、子供には悪い母だった。しっかり信じすれば、良い母、いい妻、広布にプラスになる人材となるのです。帰ったら、子供さんにも謝りなさい』と話しました。ところが、その婦人は『子供にも謝るんですか?』と困り果てたように3回も聞いてきた(笑)
いくら親だって子供の足を踏んだらごめんなさいと言うのは親でしょう。「この子は私が産んだのだから謝る必要はない』と言うわけにはいかない(笑)と言うと「子供には謝りにくいですね」と言っていた。
しかし、御本尊に題目を唱えでお詫びし、本当に悪い母であったことがわかれば、自然とごめんなさいと言う言葉でになって出てくるのです。その婦人曰く『必ず人間革命して報告出来るようになります』と。
その後、その婦人から手紙が来ました。飛行場から帰って、さっそく食事を用意しテーブルに置いたが主人は食べなかったとのこと。「ごめんなさい」と謝らないでただ作っておいたらしいのです。何も言わないでおいたのでは食べるわけがない(笑)
子供にもいまだ謝っていないが、指導の内容をそのまま話したところ、子供も180度変わったとのことです。手紙を読んで信心のやり直しをするんだと言う婦人のなみなみならぬ決意を実感しました。
この例からも分りますように、自己の宿命を正しく見つめ、自身の変革がすべての解決するカギであることを一念においた祈りが大事になってくるのです。
指導の泉 和泉覚 17p-21p
聖教新聞社 1979年発行
例えば今、主人で悩んでいる、子供で悩んでいる、病気で悩んでいる、何か悩みがある。その悩みがなぜできたか、できた根本の因を直すのが信心です。なった結果だけ直そうとしても、いつまでたっても治らない。
御書に『病の起こりを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし』P921 とあります。
どんな問題でも、出てきた結果があるからには、必ず原因があり、縁がある。因だけでは結果は生じない。縁だけでも結果は起きない。タネという因があって、水をかけるという縁がなければ芽は出ない。どんなに水をかけてもタネ(因)がなければ芽は出ない。悩みというものも、悩みという結果が出たのだから因と縁があるはずです。自分の因を忘れて相手の縁だけを責める人がいる。
いかに主人や子供が悪くとも、一体何が悪くさせたのかといえば、間違った宗教の影響です。そこで、なぜ夫婦となり親子となったかの問題です。なぜ、主人で悩まなくてはならないのか?子供で悩まなくてはならないのか?という宿命がわからない。だから仏法がわからない。
今世で悩まなくてはならないのは前世の因があるからだ。主人を悩ました、子供悩ませてきたという原因があるから、逆に悩ませられるという果を今感じている。そこに気がつかなくてはいけない。
戸田第二代会長の指導にもあった。
子供が小児マヒだ。だから親が苦労する。子供で苦労する宿命があるから、そこに小児マヒの子供がいるんです。辛いのは自分だもの。助けてほしいのは自分なんだ。子供で悩む宿命を転換する以外にないと信力、行力を奮い起こしていけば、その悩みは解決するのです。
ある婦人が指導を受けに来ました。主人がガンとだという。その婦人は、ご主人のガンが治ることをだけを一生懸命お願いしているがなかなか結果が出ないとのこと。
私はその婦人に言った。
ご主人はあまり信心していないんでしょう?信心していないご主人の病気を治してくれと願うのは、食事をしない人を満腹にしてくれというのと同じです。信心しなくてもご利益があるのなら、信心は誰かに頼んでおけば良い。誰も信心なんかしませんよ。ガンの病気を契機に、なんとか広布流布に役立つ主人にして欲しい、しっかり信心する主人にして欲しい!!という願いが本当の願いでしょう。
今までのお詫びをしっかりして、今からしっかり頑張っていく誓い、御祈念をしていくのが、本当の信心の姿です、と指導をしました。
その奥さんは家に帰って、信心の姿勢を心から反省して祈念しました。
ご主人の病状がだんだんよくなって、1ヵ月したら土曜、日曜日は外泊を許されるようになった。そして土曜、日曜日に家に帰ってくるというと、医者がびっくりするほど、目に見えて良くなっている。題目をあげていることを知らないからお医者さんは『家でどんな栄養をとってくるんですか?』と言われたとのこと(笑)
結局は自分自身の宿命転換に解決のポイントがあるのです。
指導の泉 和泉覚 22p-24p
聖教新聞社 1979年発行
指導を受けに来る人に、よくこういう人がいます。
「主人が悪い」「姑が悪い」
「子供が悪い」 「幹部が悪い」
「あれが悪い、これが悪い」
「悪くないのは自分だけ」と思っている(笑)
私が悪いために苦しんでいる、といってくる人はひとりもいない。みんな、ほかが悪いということになっている。今日も自分は悪くない人ばっかりが集まっている(笑)
どんな問題でも結果が生じるには、必ず因と縁があります。因としての種がある。それに縁という水を全然やらなければ育たない。また、いくら水をやっても種がなければ芽も出ない。
ここに水があります。沈殿物があれば、かき混ぜると水がにごる。かき混ぜるというのは縁。沈殿物はにごる因です。
夫婦喧嘩ばっかやって相手が悪いといっている人は
「あんたがかき混ぜたからにごった」
といってるのと同じですね。いくらかき回したって、沈殿物がなければにごらないんですよ。沈殿物があったことに気づかないで、人ばかりうらんでいる場合が多いのです。自分自身に因があって、それが縁によって生じているということに気づかない。
夫婦喧嘩をやっているのは、主人からいえば「家内が悪い」奥さんは「主人が悪い」という。「私が悪い」といって喧嘩している人は一人もいない。
戸田第二代会長が市ケ谷の事務所で個人指導されていたとき、ある婦人が「うちの姑は、根性曲がりで、意地わるで、いくらいってもかなわない」と姑の悪口をいっぱい並べた。
戸田第二代会長は「若いあなただってなかなか自分の根性が直らないじゃないか。まして年とった姑さんの根性を直そうというあなたの根性がよくないよ」といわれた(笑)
そしてコンコンと指導されて、その人が「本当にそうだ。おばあちゃんじゃない。私が悪かった」と気づいて家に帰ったところ、その姑さんも変わっていたそうです。ほかの問題も同じです。相手じゃない。子供じゃない。親じゃない。
自分自身の宿命の転換が信心なんです。
「主人が、主人が・・・・・・」「子供が、子供が・・・・・」
といっている間は、いつまでたっても解決しない。 なぜ主人や子供で苦労しなければならないのか・・・。 それを考えなければならないのです。
例えば、子供のことで悩む。それは自分自身が間違った宗教をやってきた害毒で子供で苦労する宿命を持ったことと、それに気づかず相手が悪いとうらんでいたことの現在の信心の姿勢に因がある。子供で苦労しなければならない自分の宿命を転換すれば子供が変わるのです。子供で苦労している人は、大抵、子供が悪い、子供が悪いという。私から見れば、子供より、その親のほうがよっぽど悪い(笑)
大事なことは、自己の宿命を見つめて、その転換を祈っていくことです。
御書のP.930を見てごらんなさい。
「小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ」と。亜闍世王のような大逆罪のような人であっても、心の底から懺悔すれば罪が消えていく。しかし、懺悔がなければ、小さい罪さえも消えない。本当に自分の宿命を見つめて、過去、現在の謗法をおわびし、題目を唱え抜いていけば、転換できない罪業などないのです。
身近な例でいうと、100万円払わなければならないのに、3万円、5万円で軽くすましてもらう。これが転重軽受です。借りたものは返さなければならない。自分が作った因は、自分が受けなければならない。しかし信心の功徳で思い罪業も、全部驚くほど軽く受けながら、最高に幸せな境涯になっていくのです。
指導の泉 和泉覚 25p-28p
聖教新聞社 1979年発行
人間には、だれにも悩みがあります。みなさん方にも何かしら悩みがあると思います。それも、願いが叶わないところに悩みが生ずるんではないでしょうか。願いが叶った時に〝よかったな〟叶わなかった時に〝困ったな〟と感ずる。
ある人が「御本尊にお願いする時は、自分のことなんかお願いしてはダメよ。広布流布のことをお願いしなければダメよ。」と指導した。その人は私に「本当にそういうもんでしょうか?」と聞きに来たことがあります。
私は思うんですが、自分のことばかり願っている人には「自分のことばかりではなく、広布流布のことも願いましょう」と指導してあげることも大事なことです。ところが、広布流布のことを願っているのだから、そのうち自分の生活もよくなっていくだろう、と現実生活に対して安易に考えている人がいます。こういう人は、やがて「広布流布のことを願っているのに、生活はさっぱり良くならない」との疑問が出てくるものです。
戸田第二代会長は「釜の中にお米を入れて、水を入れて、いくら拝んでもご飯にならないよ」(笑)
とよく指導した事がありました。わかりやすく言えば、題目をあげなさいというのです。そうすればやがて〝やっぱりそうだ、火をつけなければならないんだ〟という知恵が出てくる。また、硬すぎた、柔らかすぎた、水加減、火加減という知恵が出てくるわけです。
結局、広布流布のことを真剣に願うことは大事なことですが、それによって、自己の生活が自然によくなるであろう、という安易な姿勢では、いつまでもよくならないということです。
したがって、広布流布のことを願うことも大事だし、それができるために自己の生活向上を願い、努力、工夫して前進を図ることも、これまた大事なことなのです。
要は、両方願っていくことが大事なのです。
ブロック員の中に、
「今、仕事が忙しいので余裕ができたら活動しましょう」という人がいます。そんな場合、つい「それもそうだ」と相手に同情してしまうことがありますが、それでは指導にならない。(笑)
その人の言い分は、まるで足の悪い人に「医者にいきなさい」といったら
「足が悪くて歩けません。歩けるようになったら医者に行きます」といっているのと同じです。歩けないから医者に行くんです。それと同じように経済的、時間的に活動出来ないからこそ、そうした状態から脱皮できるように強盛に祈り、少しでも活動するように努力していくことが大事なのです。
これも以前私が会った人ですが、奥さんは一生懸命に活動しているが、ご主人は宝石商で全く活動しない。毎晩9時、10時まで残業だという。そこで私は、その人に話しました。「あなたは忙しくて活動する時間がないという。しかし1ヶ月のうち1日くらいは休みの日があるでしょう。普段は忙しいあなたです。だからこそ、その月に一度の休みの日に一人前の充実した活動ができるように、と祈念し、実践する以外にないのではないか」と。
つまり、指導する側が心したい点は、相手の弱い部分に共鳴して妥協するのではなく、相手の信力、行力を呼びさましていくことです。そのご主人も、そのように指摘されて自分の信仰姿勢の誤りに気が付いたようです。
それからは短い時間でも活動に励むようになり、今では東京のある区の中心幹部となっています。